2019年5月21日火曜日

魂を上昇させる道・メーテルリンク青い鳥_「神話と占い」(その71)_






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魂を上昇させるということ
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クリスマス・イヴ、貧しい樵(きこり)の子どもチルチルとミチルの兄妹は向かいの家で催されているパーティーの歓声を窓越しに聞きながら、ふたりだけで寝ていた。そこへ魔法使いの老婆ベリリウンヌが現われ、「病気の子のために、青い鳥を探しておくれ」とふたりに頼む。老婆が差し出した「目をよく見えるようにする」帽子を被ると、老婆ベリリウンヌは美しい女王になり「パンの精」や「砂糖の精」、「水の精」「火の精」「光の精」「牛乳の精」「犬」「猫」をふたりの従者にしてくれた。

従者と一緒にチルチルとミチルは「思い出の国」で亡き祖父母に会い、「森」で木々や動物の人間批判に遭遇し、「未来の国」で生まれる順番を待つ赤ん坊を見、「幸福の国」で財産や地位よりも貴い幸福のあることを知るが、どこで見つけた「青い鳥」もその国から出ると黒くなってしまったり、死んでしまったりするので連れて帰ることができない。結局ふたりは目的を果たせずに寂しく帰ってくるが、見慣れたはずのみすぼらしい我が家が、旅を終えた彼らの目には美しい御殿に見えた。


気がつくと家で飼っている土鳩が青く変色し、「青い鳥」になっている。そこで足の悪い隣家の少女を家に招いてこの鳥を贈ると、彼女はすぐに歩けるようになった。三人はひとしきり喜び合い、餌を与えようと鳥かごを開けた瞬間、青い鳥は飛び去った。




【西洋神秘主義思想】魂を上昇させる道
モーリス・メーテルリンク『青い鳥』
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神秘主義にかぶれて象徴主義文学運動に則(のっと)った(つまり、よくわからない)作品群を発表したメーテルリンク(モーリス・メーテルリンク。一八六二~一九四九、ベルギーの詩人・劇作家。処女詩集『温室』、劇『マレーヌ王女』など。ノーベル賞作家)の寓話劇『青い鳥』は、以前紹介したハサン・バスリー「慾深い息子たちへの遺言」同様、錬金術的真理を表す代表作と言われます。どちらの物語も我が国における理解度は低く「幸福は、気づかないだけで本当は身近なところにある」説話だと信じられていますが、実はそうではありません。


イスラム教に「人や動物の理解力は、〝神性〟のレベルによって決まる」という教えがあります。同時に「神性の低いものが、高いものを見上げて理解することは難しい」とも教えられます。


たとえば頭の良い馬とそうでない馬との決定的な違いは、イスラム的には「神性」です。神性の高い馬は人間を人間とみなしその要望に応えることができますが、神性の低い馬は傍にいる人間を認識できず状況に対応することができません。するとたとえ足が速くてもそれは使えない馬になり、大切にされず幸せな馬生活は送れないのです。それは神性の低い人間が神の臨在(りんざい)を認識できず、幸福を知らないのと同様です。


神性の高い者は低い者より視野が広いので、より広範な世界を持ち、より多くのチャンスに恵まれます。他方、神性の低い者は井戸の中を世界と信じる井戸生まれのミズスマシのように、狭い世界しか知らず故にチャンスもなく、つまらない一生を過ごします(イスラムの教え)


有難くも唯一神(アッラー)はすべての生き物の中で人間を筆頭の地位に就け、地上世界を睥睨(へいげい)するに足(た)る神性を授けてくれたわけですが、人と人とのあいだの神性レベルは動物間のそれよりずっと振り幅が大きく、中には駱駝(らくだ)に劣る者もあり、中には伝説の義人エノク(『旧約聖書』、イスラム社会でよく知られる旧約の「半神」)のように、死を介さず居ながらにして天使になれる、神のようなレベルの者もいるのです。


神性が上がれば眼窩(がんか)の世界が広がり、それまで「運命」と諦めていたこともそうではないと気づきます。しかしそれはあくまで「神性が上昇すれば」の話であって、神性に変化がないなら百年待とうが「農場」は「農場(埋蔵金はない)」、「鳩」は「鳩(青い鳥ではない)」です。以上がイスラム神秘主義的に言い換えられた、「魂の上昇」思想です。


「錬金術」が標榜(ひょうぼう)する思想は、それを行う錬金導師本人たちはヘルメス思想だと考えていたようですが、実際はアラビアの神秘主義に基(もと)づいているため思考傾向はほぼこのとおりです。


すると問題は「いかにして神性(魂)を上昇させるか」ですが、これが至難の業(わざ)なのです。ただ知識を積んでも、それで神性(魂)が上昇するとは言えません。欲たかりな息子たちが黄金欲に駆られ農地を隅から隅まで掘り返したこと、チルチルとミチルが人助けのため子どもだけで無謀な旅をしたことは、現世的には無駄に見えても神の御前(みまえ)では違います。宗教的には〝頭(肉体)が学ぶ〟ことと〝心(魂)が学ぶ〟ことは、まったく次元が異なるからです。


たとえばイスラム社会では、「欲心」を決して否定しません。欲深い人は、きちんと指導されれば「義人」になります。欲心は挑戦するきっかけを作るからです。そうして、たとえ敗北したとしても、挑戦する者はしない者とは比較にならないほど、偉大だと考えます。


錬金導師が「黄金錬成」や「錬金薬(エリクシル=「賢者の石」で作る不老不死薬)」など露骨な現世利益を臆面(おくめん)もなく提示するのは、世にいる高邁(こうまい)な欲たかりをたくさん吸い寄せるためです。「欲心」がある者は、〝心(魂)が学ぶ〟用意があるからです。


ユダヤ教やイスラム教などの「義」は、つまるところ「唯一神への愛=遵法(じゅんぽう)」、もしくは「挺身(ていしん)」だと言われます。しかし神に自分を捧げようとしても、自分がない人は捧げるものがありません。「欲」は言ってみれば「強い自我(エゴ)」で、これは努力によって「自己(セルフ)」に変えることが可能です《ユング》。〝心(魂)が学ぶ〟とは、畢竟(ひっきょう)「自己(セルフ)を強く確立する」と、いうことになるのです。





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