2019年5月4日土曜日

哲人ヌマ王とユピテルの攻防_「神話と占い」(その54)_






*****************
人身御供を放棄した、ローマの先見性
*****************

聖王の身代わり役は、父権制社会の広がりとともにアブド・ル・ムッタリブ(使徒ムハンマドの祖父)のような「子どもを身代わりにするのさえ、もったいない」と感じる父親たちの手で聖獣たちに委ねられます。また、ローマのように「人身御供をしない」ことを旗印に掲げ、それを武器に周辺諸国を統合してゆく一風変わった大国も現われます。



⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒




ローマ建国の父ロムロスが昇天したとわかったあと、哲学者出身のヌマ・ポムピリウスが王に選ばれ、鳥占いによって神々の承認が確認された。しかし哲人王を嘲(あざけ)るように凄まじい嵐がローマを襲い全土に落雷が止まなかったので、人々は神の許しを乞い人身御供が盛んに行われた。


哲人ヌマはこの悪習を憎み、妻である水の妖精エゲリアと相談して、外(ほか)の神々に比べ特に人間の生け贄を好むという至高神ユピテルを計略にかけ、祭壇に人の血が流れるのを、至高神自身の名において禁止させる手段がないか、画策した。

ヌマはエゲリアの助言に従い、ユピテルの従者である狩人ピクスとその息子で山羊足のファウヌスとを葡萄酒で誘き出し、六人の童貞に網を掛けさせふたりを生け捕りにした。ピクスとファウヌスはヌマの要請を受け入れてアウェンティヌスの丘で犠牲を捧げ、小枝を振ってユピテルを招来した。

「ピクスとファウヌスを利用するとは利口なやつだ」とユピテルが感心したところで、ヌマは恭(うやうや)しく「雷が落ちたあとは、どう浄(きよ)めればよろしいでしょうか」と至高神に質問した。するとユピテルが「(人の)頭を捧げよ」と指示したので、ヌマはすかさず「では、玉葱(たまねぎ)の頭を使いましょう」と応じる。「人間の身体(からだ)の一部をだ」と、ユピテルが訂正するとヌマは「なるほど!  頭髪を供えるのを忘れますまい」と応えた。

ユピテルは苛立ち「何か生きたものを添えなければ駄目だ!  」と声を荒げる。ヌマは「もちろんですとも! 生きた魚を添えさせて頂きましょう」と、すまし顔で言った。至高神はうんざりした表情になり、不満そうに天空へ帰った。これ以後、ローマでは犠牲祭に玉葱(たまねぎ)と人の頭髪と、生きている魚を使うようになった。



【ローマの神話】人身御供を廃止させた哲人王ヌマの計略
リウィウス『ローマ建国史』など
⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒



処女神アナテの弟で至高神のバアルは牝牛との性交を職務(死神モトに殺される前と復活後にそれぞれ牝牛との性交が語られる、起源前一四〇〇頃の記述)にしていますが、これは聖王が牝牛と形式的に交わり、その牝牛が産んだ仔牛を「半獣半人」の生き物として聖王の身代わりに立てる祭儀があった、ということではないでしょうか。


そう考えれば半山羊半人のファウヌスや半馬半人のケンタウロス、半羊半人のドゥムジなど世界に残る「半獣半人」伝説の説明になります。と同時に、シュメール都市国家ウルク、キシュに「ドゥムジ」と呼ばれた王が実在した事実《シュメール王名表》は、人間の生け贄から動物の生け贄への移行期(青銅器時代)には、両方の犠牲祭が混在していた可能性を示唆します。


人間と動物の犠牲祭の混在とは、たいして重要でない儀式では王が犯した牝牛が産んだ半獣半人を利用するなど、王の名前を冠した聖獣を代用に捧げ、本当に大切な儀式では「牧人(「羊」をたくさん管理する人、牧師とも)」とも呼ばれた聖王自身が犠牲に立つという両立状態です。ここから「聖王」と「犠牲獣」、「聖王」と「牧人」との寓意的な混乱が生じた(たとえばキリスト教の教義では、イエス・キリストは「この世の王」であり、「民の牧者」であり「贖(あがな)いの羊」であると説明される)可能性があります。


『古事記《中巻、仲哀天皇》』においても、許すべからざる「国つ罪(被征服民が犯している罪)」として「馬婚(うまたわけ)」「牛婚(うしたわけ)」「犬婚(いぬたわけ)」など獣婚の数々が提示されます。既に鉄器時代に入っていた大和朝廷側征服民にしてみれば理解できない穢(けが)らわしい行為だったのでしょうが、未(いま)だ青銅器時代を生きていた先住民の蛮族たちは、大真面目な祭儀として、これら「獣犯(けものおか)せる罪」を行っていたかも知れません。


やがてキリスト教の出現が、人間だろうが動物だろうが、犠牲祭そのものの廃止を促します。イエス・キリストは「最後の贖(あがな)い」です。キリスト教は「現在と未来の人間の罪(神に犠牲を差し出して、許しを乞うべき罪)を、自(みずか)らの死によってイエス・キリストが全部贖(あがな)ってくれた(=救世主)」と言挙(ことあ)げする宗教だからです。


日本など東アジアの国々では仏教の普及が犠牲祭を下火にさせました。キリスト教の「犠牲祭嫌い」は、だからオルペウス教か仏教の影響だと言われます。同じセム語族系宗教(ユダヤ教、イスラム教)が、今でも獣の犠牲祭を禁止してはいないからです。






0 件のコメント:

コメントを投稿

TOPへ戻る