2018年11月11日日曜日

聖なる森


こちらのブログですが、一見、「暗いデザイン」になってます。
でも、よく見ていただくと、、、
暗い森の向こう側に、明るい草原が広がっているのです。

最初はデフォルトのデザインを使っていたのですが、
気に入ってしまい色々アレンジし、
わざわざこんなデザインを創り上げています。

自分、子どもの頃に事故で二日間意識不明となり、
こんな森を訪れた覚えがあります。
(もちろん、夢の中の出来事です)

どこかから、たのしそうな会話が聞こえてくるのに、
自分の周りには暗い森が広がり、
明るい日差しの下へ行こうとして、
どうしても行けませんでした。

やがて誰かがやさしい声で「戻りなさい。まだ、そのときではない」と、
言うのが聞こえます。

ずっとそこに居たかったのですが、
たのしそうな会話を交わす人々の姿は、
わたしにはどうやっても、見ることができませんでした。

わたしは「まだ、ここにいる資格がないのだ」と理解し
そのとたん、目が覚めました。

二日間付き添い、一睡もせずに祈っていてくれたシスターが、
悲鳴のような声をあげて泣きました。


ときどき、いえ、本当を言えばいつでも常に、
シスターに会いたくて仕方ない駄目なわたしですが、
ひとりで頑張ると約束したので、ひとりで頑張ります。

きっとまたいつか、お会いできますように。






2018年10月27日土曜日

はじめて覚えた名前




子どもの頃、事情があって児童養護施設にいました。
すごく幼い時期にいたので、わたしに言葉を教えてくれたのはシスターです。

わたしは感情を表に出すことができない子で、自閉症児と疑われていました。小学校に上がるまで、結局三回検診で自閉症児と言われたのに、学童になるとそれらしい気配すらなく、今では「あれは誤診だった」と言われてます。

家系的なものなのかも知れませんが、父方の従兄弟で同じように医療機関で自閉症と言われて養護学級へ行き、高校卒業時にまったく正常だったと判明した人がいます。とても珍しい症例だそうです。

自分の経験だけで言うと、わたしはその頃、単純に言葉が理解できませんでした。言葉がわからないので他人の感情を読むことができず、不安のため、押し黙っていたのです。

出エジプト記 海に出来た道
修道院同士の交流と聞いた覚えがありますが、あるとき、わたしのいた修道院のミサで、普段は見ることのできない偉い神父さまがお話をなさいました。それも毎週、1ヶ月ほど続けて来訪され、児童養護施設の子どもたちに直接イエスさまのお話を聞かせてくださったのです。

わたしはまだとても小さく、自分がどうして児童養護施設にいるのか本当には理解していませんでした。父と母がどこへ行ったのか、自分はどうして家に帰ることができないのか、シスターに聞きたいことはたくさんあったのですが、言葉がわからないので我慢していました。

そんなことですので、偉い神父さまのお説教は、わたしにはさっぱりわかりませんでした。女子修道院に併設された児童養護施設のため、大人の男性を見ること自体が珍しく、ほかの子どもたちも、みんなただ、施設の中を歩き回る男性にびっくりして怖がっていました。お話を聞くなんて状態では、ありません。

出エジプト記 十戒
神父さまはシスターたちと相談なさり、お説教にまったく興味を示さない児童養護施設の子どもたちのため、子どもも理解しやすいモーセの「出エジプト記」を、2週目から取り上げてくださいました。そして3周目、わたしはふと、繰り返し出てくる「モーゼ」という音が気になりました。

そこでミサのあと、わたしたちのお世話をしてくれていたシスターのスカートを引っ張り、「モーゼって、なあに」と、聞いたのです。

するとシスターは大喜びで、たくさん話してくださいました。
でもその説明は、やはり、まったくわかりません。

それでも、どうしても言葉の秘密を知りたかったわたしは「モーゼって、なあに」と、執拗に同じ質問を繰り返したのです。シスターはやがてハッとしたように目を開き、「男の人の名前よ!」と、言いました。

「名前って、なあに?」
「花とか、木とか、水とか、知っているでしょう? それは同じもの全部を指す言葉なのよ、でも、たったひとりだけを指す言葉があるの。それを名前というのよ
「じゃ、モーゼはそれなの?」
「そうよ。花や木にはないけれど、人間には、ひとりひとり違う名前があるの
「わたしにもあるの? わたしは、なあに?」
「あなたは□□□ちゃんと言うのよ」
「ママにも、あるの?」
「□□□ちゃんのお母さまは、△△△さんという方よ」
「パパは?」
「ごめんね、お父さまのお名前は覚えていないの。あとで調べて教えてあげるね」

出エジプト記 燃える木立

わたしはだいぶ長いあいだ黙り込みました。
そういうことであれば、どうしても知りたいことがあったのです。
シスターはそんなわたしに何かを感じ、粘り強く膝をついたまま待っていてくれました。
「あのね、、、あの、、、あの、、、」
「なあに? なんでも聞いていいのよ?」
「じゃ、イエズスっていうのは、、、、」
「そうよ! お名前よ!」
イエズスは、それなの
「イエズスさま、という方が良いのよ。でも、そうよ、お名前よ。ごめんね、今まで何のことかわからなかったのね。イエズスさまは、とても偉い方のお名前よ」
じゃ、イエズスさまは、人なの
いいえ! イエズスさまは神さまです!
「えーっと、、、、、困惑
(以下、わたしとシスターの珍問答がつづきます)


人に固有の名前があることを、そのときまで、わたしは知りませんでした。固有名詞というものを理解したあと、わたしは急速に言葉を覚え、次の週(最後の週)の神父さまのお話はほんの少しだけ、理解することができました。

わたしに言葉を教えてくれたのは神父さまと、シスターです。
わたしが最初に覚えた名前は、「イエズスさま」と「モーゼ」でした。

ちょっと自慢です。うふ。





2018年10月25日木曜日

赦しと許し



「赦(ゆる)す」ことと「許す」ことは違うという、意見があります。
「赦(ゆる)す」は forgive であり、「許す」は permit だと。

イエスの言葉「赦しなさい」の意味は、罪を犯した人が悔悟すれば放免しなさい、という意味であって、犯した罪自体を許したり許容しろという意味ではない、という意見です。


※バルバロ神父と新共同訳を併記する理由はこちらから
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◆マタイによる福音書(マテオによる福音書)
◆6-14~15.施しをするときには
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あなたたちが他人の過失をゆるすなら、
天の父もあなたたちをゆるされる。
だが他人をゆるさなければ
天の父も
あなたたちの過失をゆるしてはくださらぬ。

フェデリコ・バルバロ『新約聖書』
※ラテン語聖書から日本語への直接の訳
講談社 1975年5月27日 第1版
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もし人の過ちを赦すなら、
あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、
あなたがたの父も
あなたがたの過ちをお赦しにならない

新共同訳『聖書(旧約聖書続編つき)
日本聖書協会1999年
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故グレース・ホッパー女子(Grace Murray Hopper, 1906-1992)は、
インターネット開発史にかんして
 It is easier to ask forgiveness than permission.
と、いうようなことをおっしゃいました。
許可を求めるより、謝罪する方が簡単じゃない、と。


開発言語COBOL(コボル)開発者であった同女子は、
まったく新しい分野を開拓するときのこころがまえとして、
そのような意識と覚悟が必要だと、おっしゃったのでしょう。
rose

いま、わたしが言う forgive と permit は、この故グレース女子の名言とはまったく別の、『聖書』の中の話です。

それにしても、開発技術者が仕事に取り組む姿勢として forgive と permit を語るのは良いとして、自他ともにキリスト者を標榜する側がイエスの言葉としての赦(ゆる)しと許しの違いを熱心に説(と)くのは、やはり少しばかり違和感があります。

言ってみれば、許容範囲の議論に巻き込まれた感じ、というのでしょうか。
この議論をする人たちは、どこまで許すべきか許せるか規定して、
それを他のキリスト者やそうでない人々と、共有しようというのでしょうか。

フェデリコ・バルバロ神父は、ただ「ゆるす」とだけ訳しました。
わたしには forgive も permit も関係ないです。

そうです。
わたしにとってバルバロ神父の書いた「ゆるし」は、愛と同義語です。
愛そうとしているのに、言葉遊びや許容範囲は必要ないです。そうでしょう?



自分の家族を
わたしはただ、際限なしに、ゆる(愛)したかった。
でも、しくじってしまったみたいです。<





2018年10月19日金曜日

許すということは、容易なことではありません



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ヤヌシュ・コルチャック(トレブリンカ強制収容所にてガス死)
◇  1919年、ユダヤ孤児の卒業生へ送る言葉(近藤康子『コルチャック先生』より)
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私たちは君たちに、人間の愛というものを与えることはできません。
人間の愛は、寛大さなくしてはありえません。
許すということは、容易なことではありません。
君たちは、自分自身で、寛大であるよう努(つと)めなければならないのです。
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わたしの母はむずかしい人で、他人にはとても親切なのに、自分の子ども達には意地悪でした(まだ生きてますうっ!)

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学費を払わない→土下座してお願いするまで払わない
給食費を払わない→土下座してお願いするまで払わない
制服を買ってくれない→なぜか、担任教師が頭を下げてお願いするまで買わない
林間学校や修学旅行には行かせない→わたしが行きたがらないと担任教師に言う
無視して学校の行事旅行に行くと、
 →旅行先に毎回「救急車で運ばれたので帰るよう伝えて」という、電話が入る
 →ちなみに東京から熱海へ出かけていても「タクシーで連れ帰れ」と、学校に命じる
 →ちなみに東京から那須へ出かけていても「タクシーで連れ帰れ」と、学校に命じる
 →ちなみに東京から京都へ出かけていても「タクシーで連れ帰れ」と、学校に命じる
 →ちなみに、ちなみに、、、、以下略

破産した中年夫婦をどこからか拾ってきては、
期限なしに狭いアパートで同居させ、
働きもせず手伝いもしないその夫婦ものの食事の世話を、
小学生~高校生だったわたしにさせる。

自分の幼馴染だという見ず知らずの離婚した女性のために、
年末、おせち料理を作って届けるよう強制する。
ちなみに食材費は全部、高校生だったわたしのアルバイト代から出させる。
高校1年生のときは追加アルバイトで切り抜けたものの、
高校2年生になると届ける先が増えた。
(弟のお友達1軒、母のお友達2軒、合計3軒プラス自分のうち)

もちろん、中学生にもなるとわたしも少し自己主張するようになり、
高校2年生、同3年生では、さすがに暴れて拒否。事態は悪くなるいっぽう。。。
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上記のようなことは、ごくごく一部です。
あるとき、わたしは意を決し、どうしてなのか母に尋ねました。
「どうしてわたしに意地悪するの?」
「なんで必ず、わたしが困るとわかっていることを選んで要求するの?」

母の答えは、
「子どもは、親をうやまうものでしょう?」
「うやまってもらわないと、わたしの存在価値がないじゃない」

このとき、わたしは初めて、少しばかり覚醒したのです。
このひとは、頭がおかしいのだと。

わたしがいやいや従うのを見ることが、
わたしの母のアイデンティティーだったわけ。

でも、わたしは既に三十路(みそぢ)を超えていました。にもかかわらずそれまで、自分の母親の精神が破綻していることに、少しも気づいてなかったのです。

児童相談所に保護され、養護施設に入れられても
(数年後、母の希望で帰宅)

校医の先生が
「この子どもの怪我はおかしい、怪我していないところがない!」と怒り出し、
母を呼び出し児童相談所へ通報、再度保護となっても

高校の先生方が母を呼び出し、
わたしへの虐待をやめるよう勧告し、
母と揉め高校を退学させられそうになっても

わたしは母の頭がおかしいとまで、思っていませんでした。

わたしが不注意だから怪我するのだと、
うちが貧乏だから、
母は体が弱いから、
わたしの世話はせず、
わたしが世話をしなければいけないのだと、
かたく信じていました。


ヨアヒム・パティニール「ステュクス川を渡るカロン」
人間のこころは本当に不思議です。
わたしは母を、今でもあまり恨んでいないのです。

でも、弟が死んだあと、わたしはあることに気づきました。
わたしは、二人いたのです。

母を憎む冷静で冷たい性格のわたしと、母を憎んでいない、おとなしい性格のわたし。

そうしておもて側の性格である、おとなしい性格のわたしの、本来ならば母へ向けられるべき憎しみの感情は、母ではなく母の背中に隠れてわたしを酷使する、わがままな弟へ向けられていたのです。

自分の精神が少しばかり分裂しているらしいことに、わたしはごく最近まで、まったく気がついていませんでした。

ゆるしている、つもりでした。
でも、それはわたしの一面であって、ゆるしていない「わたし」が別にもうひとりいたのです。

わたしも王女メディアと何も変わらない。
自分を守るためだけに、弟をひとりぽっちで死なせてしまいました。





2018年10月7日日曜日

魔女イメージの原型



魔女イメージの原型としては、
ロドスのアポローニオス
『アルゴー船の冒険(アルゴナウティカ)』王女メディアや
ホメーロス『オデュッセイア』魔女キルケー、
エウリピデス『ディオニュソスの信女(バッケー)』などに登場する、
ディオニュソス神の信者であるバッケーたちが知られます。


王女メディアは惚れた男イアソンを逃がすため弟を殺し、イアソンが浮気をすると産んだ子どもを殺し、妻がいると知っていながらイアソンに結婚を申し込んだ、恋がたきを殺します。

魔女キルケーは好きな男を魔法でとりこにしてから、飽きたら家畜に変身させます。

メディアとキルケーのような「悪」い女にくらべ、ディオニュソスの信者バッケーたちは葡萄酒でハイになって人を殺すことはあっても、何かを恨んでいたり復讐しようとする「悪心」を抱えているわけではありません。ただ毛皮を着て山に棲み、月夜の晩に走り回るだけです。そうして大きな岩をひとまたぎで飛び越え、月を背景に夜の空に浮かび上がると書かれています。

月を背景に飛翔する魔女イメージの原型は、バッケーです。
魔女の箒(ほうき)も、バッケーが持っていたテュルソスという、木蔦(きづた)を巻いた霊杖がもとだと言われます。





2018年9月30日日曜日

王女メディアの弟ごろし



ウォーターハウス「嫉妬に燃えるキルケー」

姉が弟を憎む物語は、
古典にはあまり見当たらないと言いながら、
前回・前々回ではアマテラスとスサノオの
姉弟喧嘩についてとりあげました。

そうしてまた、
「王女メディアの弟ごろし」を紹介します。

姉が弟を憎む物語、けっこうあるじゃん、と、
揶揄しないでください。

なぜなら、ギリシア神話の王女メディアの
弟ごろしは奇異なエピソードのひとつで、
姉メディアは、少しも弟を憎んでいないからです。


アマテラスのように、弟の傲慢と態度の増長に
悩まされているわけでもありません。

ディオニュソス神のとりまき「バッケー」たちや、
ホメーロス「オデュッセイアー」に登場する「キルケー」同様、
魔女イメージの原型のひとりと言われる王女メディアは
ただただ、好きな男と逃げるだけのため、
惚れた男を逃がすためだけに、
わけもわからず協力してくれた弟を殺して切り刻み、
追っ手の足を止めさせるべく遺体を海へ投げ込むのです。

何というか、そのキレッキレの悪っぷりが印象的なエピソードです。


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◆ロドスのアポローニオス
◇  金羊毛皮、アルゴーナウティカ(アルゴー船の冒険)
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父王を亡くし賢者ケイロンの洞窟で養育された王子イアーソーンは、
おとなになると王位を回復するため、空位を守っていた叔父ぺリアース
のもとへでかけた。

ぺリアースは王座を明け渡したくなかったので、王位と引き換えに
遠い黒海の果ての国コルキスにあるという、黄金の羊の毛皮を要求した。

イアーソーンは巨大な船「アルゴー船」を建造させると、ケイロンの洞窟
でともに育った友人たち、
ヘラクレスや、
のちアキレウスの父となるペレウス、
楽士オルペウスなどをともない冒険へ旅立った。

コルキスへ着くとコルキス王アイエーテースは、イアーソーンたちに多く
の試練を与え追い返そうとした。

しかしアイエーテースとオーケアノスの娘エイデュイアのあいだに生まれ、
母譲りの魔法の智恵を持っていた王女メーディアはイアーソーンに
ひとめ惚れしてイアーソーンを助け、アイエーテースが竜に見張らせてい
た家宝「金羊毛皮」も、魔力をもちいてイアーソーンに与えてしまう。

イアーソーンはメーディアを連れて帰国することまで考えていなかったが、
イアーソーンを追って船に乗ったメーディアは父王の追っ手の船団を足踏
みさせるため、連れていた弟アプシュルトスを殺して切り刻んで、
その遺体を海にまき散らした。

そうしてアイエーテースの船団が王子の亡骸を拾い集めているすきに、
まんまとコルキスを脱出した。
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ギリシア神話でコルキスと呼ばれているのは、
現在のグルジアのあたりです。





2018年9月27日木曜日

アマテラスとスサノオの骨肉の争い


天照大御神(あまてらすおおみかみ)


姉と弟の憎しみあいの、つづきです。

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◆「古事記」
◇  誓約(うけい)、天の岩屋戸(あまのいわやと)
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統治委任された海を放置したせいで父神の怒りをかい、
地上世界を追放されたスサノオが、
母神の眠る根の堅州国(ねのかたすくに)へ退く挨拶のため
姉神アマテラスの治める天上界へ昇って行ったとき、
国土が震え、
そのせいでアマテラスはスサノオが邪心を隠していると疑った。

そこでアマテラスは武装してスサノオを迎え、
弁明するスサノオに、卜占(ぼくせん)裁判による
身の証(あかし)を求めるのだ。

「誓約(うけい=卜占裁判)」では誓願しながら次々と神産みし、
生まれてきた神々の性質で
その親である請願者に、邪心があるかないかを判断するというものだ。

この卜占裁判で、スサノオは優しい女神たちを産み、
自分の心にやましいところはないことを証(あかし)した。

しかし邪心がないと認められた途端にスサノオは荒ぶり、
田んぼの用水路を埋めてしまったり、
神殿に汚物を撒き散らしたり、
機織女(はたおりめ)を犯して殺したりしたので、
アマテラスは怒りに震え
天の岩屋戸(あまのいわやと)へ、こもってしまう。

太陽を失った地上は暗闇になり、ありとあらゆる災(わざわ)いが生じたため、
神々は計略をもちいてアマテラスを岩屋戸から誘い出し、
地上の光を無事に取り戻したあと、
スサノオの髭(ひげ)を剃り手足の爪を切って力を奪い、
あらためて根の堅州国(ねのかたすくに)へと追放した。
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根の堅州国(ねのかたすくに)というのは
冥界の入り口である地上の国で、
出雲(いずも)にあると言われた永遠世界です。

神話はまだまだ続きますが、
高天原(たかまがはら)ではスサノオは神力を奪われ、
いったん死んだことが暗示されています。

(つづく)





2018年9月22日土曜日

さぁ、地獄の釜の蓋を開けよう



ウィリアム・アドルフ・ブグロー「カインとアベル」

今年の初めに、弟が死にました。
あっという間に9ヶ月経ちましたが、
まだ、立ち直れません。

立ち直る予定もありません。

弟はもうこの世にないのだということを、
受け止めて生きてゆくしかありません。

もとからそんなに、仲良くはない姉弟でした。
人生の大部分の時間を共有しましたが、
一緒に暮らせたのは、合計でも12年に満たないほど。

小さな頃はもちろん、
大人になってからはいっそう
わがままで浪費家で、
一方的に、
わたしから奪ってゆくばかりの弟でした。

この数年は
お互い激しく、憎しみをつのらせました。

弟は今まで以上に多くのものを要求し、
もう若くはないわたしには、
愛情も含め
あけ渡すものなど、
何ひとつ残っていないことを、
最後まで理解しようとしませんでした。

念のためですが、
犯罪者ではありません。
奪うのは姉のわたしからだけです。
姉が自分の味方だと信じて疑わず、
全身全霊で甘え、妄想の世界を執念で生き抜きました。

兄弟が憎みあい殺しあう物語と言えば、
古典好きなら、
まずはカインとアベルを思い浮かべるところでしょうか。
きっとそのあと、ヤマトタケルでしょうね。

男同士の兄弟ならば、
憎みあっても仕方ないということなのか。

いっぽう、姉と弟が憎みあう物語は
名作古典や聖典に、そう多く存在しません。
姉は母代わりに弟を愛すべきだという既成概念が、
その原因であるように思います。

ギリシア悲劇や神話作品の原本の多くが没落したイタリア貴族
の遺産や蔵から発見されたように、
名作古典や聖典が後世に伝わるかどうかは
それが書かれた当時の為政者(いせいしゃ)の好みに左右されます。

姉が弟を殺す物語は、古代人の好みではなかったのでしょう。

でも、すべての姉がエレクトラではないのです。
弟を守るために、人生を捧げる姉ばかりではありません。

と、ここまで書いたところで気がつきました。

考えてみれば我が国には
「誓約(うけい=卜占裁判)」という、
アマテラスとスサノオの、ものすごいのがありましたね。

(つづく)





2018年9月8日土曜日

新共同訳より、ラテン語そのままの聖書の方がすきな件。(≧∇≦)



ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

■■ まえおき
念のためですが、
自分はクリスチャンではありません。
でも、事情があってキリスト教文化が自分の原風景です。


 http://p.booklog.jp/book/122700
━…‥‥…━…‥‥…━…‥‥…━…‥…━
『神話と占いの世紀 第30巻』をご参照くださると嬉しいです。
(無料本で、しかも20ページちょっとという脅威の短さ!)
http://p.booklog.jp/book/122700
━…‥‥…━…‥‥…━…‥‥…━…‥…━


■■ 本題
ラテン語から直接訳された聖書の方が、美しいと感じます。
日本独自の新共同訳は、その崇高な歴史的意義は認めます。
でも、どうも美しいと感じられないのです。

「コーランが美しすぎてイスラム教にはまった」という
ムスリムの話に触れるたび、
日本の新共同訳を想い、少し淋しく感じます。


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◆聖パウロ「ヘブライ人への手紙」
◆11.信仰
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信仰によってノアはまだ見ぬことについてのお告げを受け、
家族を救うため謹んで方舟を造り、
罪を定め、
信仰による正義の世継ぎとなった。

信仰によってアブラハムは
「遺産として受けるであろう約束の地へ行け」と召命され、
その方角も知らず旅立った。

これらの人々は皆、信仰を保って死んだ。

約束のもの(栄光)を彼らは受けとらなかったが、
(生前は)遙か遠くにそれ(死後の栄光)を見て挨拶し、
この世では、
自分はしょせん他国人であり
旅人にすぎぬことを理解していた。

フェデリコ・バルバロ『新約聖書』
※ラテン語聖書からの訳(カッコ内は筆者による補筆)
講談社 1975年5月27日 第1版
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信仰によって、
ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、
恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、
その信仰によって世界に罪を定め、
また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。

信仰によって、
アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に
出て行くように召し出されると、
これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。
約束されたものを手に入れませんでしたが、
はるかにそれを見て喜びの声をあげ、
自分たちが地上ではよそ者であり、
仮住まいの者であることを公(おおやけ)
言い表したのです。

新共同訳『聖書(旧約聖書続編つき)
日本聖書協会1999年
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2018年9月6日木曜日

ギリシア神話、本当は好きじゃないんだよね。



ダヴィッド「ソクラテスの死」

趣味でギリシア神話のダイジェスト版など書き、電子書籍を出してます。
でも、実はギリシア神話はそれほど好きではないんですね。

ギリシア文学にはまったのは、小学生の頃『プラトン著作集』を読んだからです。

ちょっと複雑ですね。

●家族や友人には「ギリシア神話」が好きだと思われている。
---でも、全然好きじゃない。
---全知全能の神が白鳥に化けて少女をレイプするような神話だし。

●「本当に好きなのはプラトン」だと、訴えてみる。
---でも、本当はプラトンは自分の意見を書いているわけではない。
---プラトンが書いたのは師匠「ソクラテス」が言ったこと。

●「本当はソクラテスが好き」と、言ってみる。
---でも、共感できるのは「ソクラテスの弁明」のみ。男色とか、わからんよ。

悲しい。。。





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