2018年10月25日木曜日
赦しと許し
「赦(ゆる)す」ことと「許す」ことは違うという、意見があります。
「赦(ゆる)す」は forgive であり、「許す」は permit だと。
イエスの言葉「赦しなさい」の意味は、罪を犯した人が悔悟すれば放免しなさい、という意味であって、犯した罪自体を許したり許容しろという意味ではない、という意見です。
※バルバロ神父と新共同訳を併記する理由はこちらから
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◆マタイによる福音書(マテオによる福音書)
◆6-14~15.施しをするときには
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あなたたちが他人の過失をゆるすなら、
天の父もあなたたちをゆるされる。
だが他人をゆるさなければ
天の父も
あなたたちの過失をゆるしてはくださらぬ。
フェデリコ・バルバロ『新約聖書』
※ラテン語聖書から日本語への直接の訳
講談社 1975年5月27日 第1版
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もし人の過ちを赦すなら、
あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、
あなたがたの父も
あなたがたの過ちをお赦しにならない
新共同訳『聖書(旧約聖書続編つき)』
日本聖書協会1999年
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故グレース・ホッパー女子(Grace Murray Hopper, 1906-1992)は、
インターネット開発史にかんして
It is easier to ask forgiveness than permission.
と、いうようなことをおっしゃいました。
許可を求めるより、謝罪する方が簡単じゃない、と。
開発言語COBOL(コボル)開発者であった同女子は、
まったく新しい分野を開拓するときのこころがまえとして、
そのような意識と覚悟が必要だと、おっしゃったのでしょう。
いま、わたしが言う forgive と permit は、この故グレース女子の名言とはまったく別の、『聖書』の中の話です。
それにしても、開発技術者が仕事に取り組む姿勢として forgive と permit を語るのは良いとして、自他ともにキリスト者を標榜する側がイエスの言葉としての赦(ゆる)しと許しの違いを熱心に説(と)くのは、やはり少しばかり違和感があります。
言ってみれば、許容範囲の議論に巻き込まれた感じ、というのでしょうか。
この議論をする人たちは、どこまで許すべきか許せるか規定して、
それを他のキリスト者やそうでない人々と、共有しようというのでしょうか。
フェデリコ・バルバロ神父は、ただ「ゆるす」とだけ訳しました。
わたしには forgive も permit も関係ないです。
そうです。
わたしにとってバルバロ神父の書いた「ゆるし」は、愛と同義語です。
愛そうとしているのに、言葉遊びや許容範囲は必要ないです。そうでしょう?
自分の家族を
わたしはただ、際限なしに、ゆる(愛)したかった。
でも、しくじってしまったみたいです。<
2 件のコメント:
>わたしにとってバルバロ神父の書いた「ゆるし」は、愛と同義語です。
>愛そうとしているのに、言葉遊びや許容範囲は必要ないです。そうでしょう?
はい。
こんな文章には、誰かがコメントしなきゃです。
必ず、誰かが心を寄せて感じなきゃならない。
そんな他者を必要とする文章です。
コメントするのは、僕の手に余るとしても、
とにかく、誰かがコメントしなきゃ♪
>とにかく、誰かがコメントしなきゃ♪
なんか、すみません。
お心遣い、ありがとうございます。
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