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「錬金術」誕生
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歴代ローマ皇帝が魔術には非常に神経質だったため、ヘレニズム世界で発展を遂げた「占星術(二世紀頃エジプトのプトレマイオスがあらわした『テトラビブロス=四書』によって、現在の形になったという)」は、ローマ皇帝の下(もと)では特段の進展を見せませんでした。かつ、キリスト教が国教化されて隆盛になると邪宗・異端の誹(そし)りを受けヨーロッパ世界ではいっとき衰退し、ルネサンス期再び脚光を浴びて復活します。
暗黒の中世を経(へ)、再度「人間性の尊重(ルネサンス)」を掲(かか)げて始まった「文芸復興運動(近代の出発点、十四世紀イタリアに始まり十五世紀以降西欧各地に広がった)」の中で、それまで呪術の一種と見なされていた占星術が再評価されたのは、たとえ月や太陽、星への崇拝にすぎない未熟なものでも当時「天文学」は「占星術」以外に存在せず、キリスト教神学に飽き足らない知識人の探求心を満足させるものが、外(ほか)になかったからでしょう。
また、この時代に流入した「東方占星術(この時代の〝東方〟はアラビア・ペルシャ方面を指す)」が、それまで彼らが知っていた「占星術」とは、まったく違って見えたという側面も見逃すことができません。
十字軍(一〇九六~一二七〇)の時代まで西方教会は占星術特有の惑星崇拝を邪教視し、利用するのはせいぜい「暦学(こよみがく)」程度に制限していました。しかし十字軍やイスラム統治下に入ったスペイン(七一一~一四九二)から伝えられた占星術は「錬金術」という、神学なのか哲学なのか自然科学なのかわからない、高尚そうな新しい衣を纏(まと)い東方風に飾り立てられていたのです。キリスト教神学の独善と視野狭窄(しやきょうさく)に飽き飽きしていた西洋知識人たちは、「錬金術」が放つ軽薄な難解さに魅了されました。
イタリアのルネサンスから遡(さかのぼ)ること数百年(十世紀前後)、ヘレニズム世界(起源前四世紀~、アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシアの文化の融合)の「占星術」はエジプト・シリアで盛んだった暦学(こよみがく)と冶金術(やきんじゅつ)、古代ギリシアの自然哲学、アレクサンドリアのヘルメス文書などと出会い、アラビアで「錬金術」を生み出します。
一般に「錬金術」は「卑金属から金を創る」魔術と理解されていますが、実際には「あらゆる知識の集大成としての錬金術を学ぶことによって人間的に成長する」のを目的とした学問であり、「金を創(つく)る」ことでなく「金になる」ことを目指します。
なぜなら錬金術では黄金錬成の前準備として「賢者の石(「哲学者の石」「思弁=しべん、の石」などとも)」を入手しなければならないとされており、非常に有名なこの石を、西洋の練金導師は「十字架の上のイエス・キリスト」と呼ぶからです。「十字架の上のイエス」とは「〝生け贄死した〟聖王」を指すモチーフであり、「〝自己犠牲による〟神人合一」を表すのです。
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練金導師とは怠惰に身を委(ゆだ)ねたり、高慢(こうまい)な性格を有したりするのではない。フラシ天やビロードの服に身をかため、ときに指環をちらつかせ銀の短剣(ダガー)を佩(は)き、派手なしゃれた手袋をはめているのでもない。練金導師は作業に精励し、四六時中竃(かま)の前で額に汗しているのである。
【練金導師の実像】パラケルスス本人による説明
澤井繁男『魔術と錬金術』
⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒澤井繁男『魔術と錬金術』
なお、アラビア錬金術と中国の「内丹(内的錬金術)」「外丹(外的錬金術)」との関係性がとりざたされますが、中国の「内丹」「外丹」は「不老不死」「長寿」のみを目的としている点で、アラビア錬金術とはまったく異なります。アラビア錬金術はスーフィズムなど、イスラム神秘主義の思想を具象で譬(たと)えたものです。
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