2019年4月24日水曜日

古代犠牲祭の式次第_「神話と占い」(その44)_






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古代の生け贄社会
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カナン信仰が成立したと思しき新石器時代、豊穣を招来するための犠牲祭は、およそ次のような順序で行われたと推定されます。




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[豊穣女神招来の犠牲祭]

(1)
 犠牲が聖油を塗られて酩酊状態にされる

(2)
犠牲が至聖所の石の寝台へ寝かされ、女神と称する筆頭巫女と性交し、石の寝台の上で女神の息子(半神=ヘロス)として産み直される

(3)
犠牲が祭壇前の中庭へ引き出され、女神の使徒獣「牛」の仮面を被せられ、中央にそびえる女神の神木へ吊るされて、去勢される

(4)
犠牲が神官から矢を射られるか、首を伐り落とされて死ぬ

(5)
分解された遺体の一部(おそらく男根)は女神の木の根元に埋められ、その血によって女神が受胎したと神官が祝詞する

(6)
遺体の残りの部分が、祭儀に参加した部族長に配られる

(7)
部族長は装飾箱に入れた「種(遺体)」を地元へ持ち帰り、さらに細かく砕いてから、土地の長老たちと地元の苗場へ埋めて歩く


【新石器時代の犠牲祭】豊穣女神招来の犠牲祭
パリゾーニ監督・映画『王女メディア』
『旧約聖書』エゼキエル書
ラス・シャムラの粘土板など
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太古の昔(~新石器時代)、神殿を支配した迷信深い巫女たちは「生命は、血によって生み出される」と信じていました。そのため犠牲は死に先立ち神木の前で切り刻まれ、その根元へ生き血を滴り落とす必要がありました。


男性の犠牲に使徒獣の被り物をさせる理由については諸説ありますが、太古の人々の、良心の呵責ゆえかと考えられます(祭儀によっては、祭司が被り物をする場合もある)。理論的には虐待の痛みを犠牲から取り除き、女神の従者である聖獣に転嫁しようということなのでしょうが、本当のところ犠牲の悶え苦しむ顔を、神官たちが目の当たりにしたくないからに決まっています。


ローマの建国神話には、「天空の神々がわざわざ人の生き血を求める意味がわからん」という、哲人王ヌマ(架空の王)の憤(いきどお)りが収録されています《リウィウス『ローマ建国史」、オウィディウス『変身物語』など》。時代が進めば人は当然、犠牲祭の惨さに眉を顰め、祭りの意義そのものへの疑念を募らせます。


そうして青銅器時代になれば、女神の祭壇の前で首伐られる役割は女神の使徒獣そのものか、オルペウス教団が持ち歩いたような芽吹いた十字架(人形)が担(にな)う時代がやってるのです。ローマ人の人身御供嫌いは徹底しており、後代になるとキュベレーとアッティスの祭りは禁止され、「肉の燔祭(はんさい)」をしないキリスト教が国教になりました。






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