2019年4月13日土曜日

多神教と一神教_「神話と占い」(その33)_







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多神教は祖霊信仰、一神教はその発展系
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我が国では多神教と一神教をまったく別の文化と見る傾向がありますが、文化人類学的に見ればこの二者のあいだにそれほど顕著な違いはありません。実は多神教はたんなる祖霊信仰で、一神教はその発展形です。

マケドニア(古代ギリシア)のアレクサンダー大王(前三五六~前三二三)は「母方の血筋は英雄アキレウスにつながり、父方の血筋は英雄ヘラクレスにつながる」と自称しました《伝カリステネス『アレキサンドロス大王記』》。アキレウスは祖父アイアコスがゼウスの子(母は女神テティス)、ヘラクレスは本人がゼウスの子で、つまりアレクサンダーは「自分はゼウスの子孫である」と主張したわけです。ゼウスの血を引くマケドニア王が世界制覇を成し遂げたことと、ゼウス信仰が世界的に広がったことは無関係ではありません。

ジュリアス・シーザーことユリウス・カエサル(前一〇○頃~四四)はユリウス家出身のローマ貴族(ローマ人の名前は日本と同じく苗字が先行する)で、ユリウス家は〝ローマ建国の祖〟アイネイアースの息子「ユリウス」に発する名家です。アイネイアースは女神アプロディーテ(ローマ名ウェヌス、ペルシャ名アナーヒタ、バビロニア名イシュタル、シュメール名イナンナ)の息子であり、だからユリウス・カエサルとその養子(カエサルの妹ユリアの子)、初代皇帝アウグストゥス(前六三~一四)は、ともに女神の子孫と称したわけです。


こうしたことは『日本書紀』が天(あま)つ神・国(くに)つ神と各豪族とのあいだの血縁関係を懇切丁寧に説明し、江戸時代の終わりまで家系図代わりに公家の各蔵で保管されていたことなど思い起こさせます。明治時代を迎えて寄贈を受けるまで、皇室の保管庫には『日本書紀』はありませんでした。天皇家の先祖は天照大御神だったので、渡来神や国つ神と特定の公家との縁起まで細々と記載してある『日本書紀』は必要なかったのです。わたしたちがよく知っている日本の神々も、もとはみんな誰かの先祖の自慢話にすぎません。




別々の先祖を抱えるいくつかの民族が融合した場合、当然ながらそのとき一番勢力の強い民族の祖霊が「至高神」の地位を占有します。「至高神」は最高の神なのですから、自然の流れで「創造神(穀物神、豊穣神)」にもなり、「雨」や「水」、「太陽、月、風を支配する力」など農耕に必要な要素も独占します。結果、その他の祖霊は「門口の守り神(ヤヌス神)」とか、「炉の守り神(女神ヘスティア)」など、それ以前に持っていた民族的特性(その民族が何を一番重視するか)を強調されて何とか神々の階層下部に納まりますが、その先祖を信奉してきた民族にとっては、「門の神」も「炉の神」も本来は皆「至高神」「創造神」だったに違いありません。


融合される民族の種類が多く、しかも短期間に神々の階層を築く必要に迫られた場合、各民族の祖霊信仰が共存できず一神教になってしまうことがあります。



現在は一神教でまとまっているヨーロッパ、アラビアも、遠い昔は多神教でした。たとえばサウディ・アラビア王家(サウディ・アラビアは「サウード家が支配するアラビア」という意味)は今でもその血筋が〝原初の人間〟アーダム(アダム)まで遡れるというほどで、イスラム教を生んだアラビアは元来「部族意識=先祖崇拝」が異常に強いところです。文明発祥の地であり常に新宗教の発信地だったメソポタミアに近いこの地域は、そうでなくとも神の種類がたいへん多く、イスラム以前にはホバール(バアル神との関係が疑われている「水たまりの神」)、ラー(エジプトの「太陽神」)、マルドゥク(バビロニアの「至高神」)など雑多な信仰があったことが記録されています。


また『コーラン』において言及されているとおり、部族意識が強いアラビアでは各部族がそれぞれ独自の祖神(アッラート、マッナート、アルウッザーなど守護女神、「アッラート=アラトゥ」はバビロニアでは冥界の女神)を抱え、それがすべて「女神」だったゝめ、太古の昔からこの地は女神崇拝の中心地として知られていました。


ところが傭兵隊や隊商などとして史実に颯爽と登場する五賢帝時代(九六~一八〇、帝政ローマ)のアラビアから、ビザンチン帝国(三九五~一四五三)期に訪れる突然のイスラム勃興(六三六年ヤルムークの戦いでムスリム軍がビザンツ軍に勝利、シリア支配権を奪取)までのあいだ、ペルシア帝国支配下にあったアラビアには歴史上の空白期間が生じます。そしてこの空白期間中に、何らかの民族移動もしくは民族紛争が起きたと推定されます。






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