2019年4月14日日曜日

カルバラーの悲劇_「神話と占い」(その34)_






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砂漠のライオンと結婚する、運命女神ファティマ
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アラビアやペルシャでは、一神教になる過程で本来祖霊であった各部族の守護女神たちを、神の使徒ムハンマドの妻たちや娘たちの名前の中へ封じたようです。たとえば神の使徒ムハンマド糟糠(そうこう)の妻ハディージャと、彼女亡きあと迎えられる幼な妻アーイシャの名前は、メソポタミアから北アフリカまで広く信仰された蛇の化身の破壊女神・老婆(ハディージャ)と処女(アーイシャ)のふたつの顔を持つ「アーイシャ・カンディーシャ」女神が起源です。

また、「ハディシャ」「カデシャ」というのは、この地域では古来「(女神イシュタルの)巫女」もしくは「老婆(巫女の別称)」を意味する言葉でした。アーイシャは古代ギリシアの「宿命女神」、ムハンマドの娘ファーティマもギリシア世界で広く知られた「運命女神」です。


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◆預言者の死

「別離の巡礼」と呼ばれる最後のメッカ詣を終え、移住地メディナへ帰還したのち、ヒジュラ歴十一年(西暦六三二)神の使徒・第一預言者ムハンマドは六十余年に亘る波乱の生涯を終えた。その遺体は従弟であり養子であり、愛娘ファーティマ(?~六三三)の夫であるアリー・イブン・アブーターリブ(~六六一)の手で湯灌されて香を塗られ、三重の布に包まれて、旅立ちの場となった愛妻アーイシャ(六一四頃~六七八)の部屋の床下へ葬られた。


しかし同じ頃、ムハンマド亡きあとの統帥権を巡りメッカから付き従ってきたムハージルーン(移住者のこと)たちと、それを受け入れたメディナのアンサール(移住者たちの保護者)たちとのあいだに深刻な勢力争いが起こっていた。この分裂を速やかに収束すべく、〝教友〟(原初イスラムに立ち会った第一世代ムスリムのこと)ウマル・イブン・ハッターブ(五九二~六四四)が年長の教友アブーバクル(五七三頃~六三四)を推挙し、議論の末アブーバクルが初代ハリーファ・ラスゥール・ラー(「神の使徒の代理人」の意)に就任、首尾良く両陣営から忠誠の誓いを取りつけた。ところがこの間、近親者に科せられる三日の服喪期間を過ごしていた預言者の娘夫婦は、完全に蚊帳の外に置かれていた。


◆ファーティマの死

アブーバクルとウマルに忠誠を求められ、さらに「預言者のものは、(近親者でさえ)誰にも相続できない」というムハンマド生前の言質を楯に私物の形見分けすら拒まれたファーティマは激怒し、関係者を廻り「父は生前夫アリーを後継者に指名していた」と訴えて歩くが、神の使徒を看取った妻アーイシャとその実父であるアブーバクルの権威を恐れ、協力者はついに現われなかった。ファーティマはひどく憤り、自分たちをないがしろにしたウマルとアブーバクルを恨んだ。

そうしておよそ半年後、夫アリーと二人の息子たち(ハサンとフセイン)、二人の娘たち(ザイナブとウンムクルスーム)とをひとりづつ自室へ呼んで抱き締めたあと、ファーティマは体を浄めて寝台に横たわり、メッカの方角を向いて目を閉じた。すぐに息を引き取った妻の亡骸を、すべてを見守っていたアリーが抱き上げ、バキーウ・アルガルカド(アルバキーウ)へ埋葬した。


◆アリーの死

第一代ハリーファ(日本では「カリフ」表記が一般的)、クライシュ族タイム家出身のアブーバクルは二年後に病死、第二代ハリーファに指名されたクライシュ族アディー家出身のウマルはモスクで祈祷中、陳情に来た奴隷に話しかけられ、無視して祈り続けたゝめ刺し殺された。第三代ハリーファとなったクライシュ族ウマイヤ家のウスマーン・イブン・アッファーン(~六五六、クルアーンの編纂・正典化)は同族重用がはなはだしく反乱兵士五〇〇人に取り囲まれて八つ裂きにされ、ウスマーンを死に追いやった反ウマイヤ派は即座にアリーを第四代ハリーファとして推戴した。


しかしシリア総督であったウマイヤ家のムアーウィヤ・イブン・アブースフヤーン(~六八〇)は先代ハリーファ殺害者たちによるアリーのハリーファ選出を無効とし、「血の復讐」を宣言する。同時期ウスマーン殺害に加担したクライシュ族タイム家出身のタルハ(~六五六)、クライシュ族アサド家出身のズバイル・イブン・アウワーム(~六五六、アブーバクルの娘アスマーの夫)はメディナを脱出、前からアリーと折り合いの悪かったムハンマドの未亡人アーイシャとメッカで合流しバスラ(イラク)において挙兵した(六五六「らくだの戦い」)

アリーはバスラ、クーファ(イラク)のアーイシャ軍を撃破するや、自らの義母であり〝ムスリムの母〟とも目される彼女を完全隠居に追いやった。続くヒジュラ歴三七年(西暦六五七)アリー軍はムアーウィヤ軍にほぼ勝利(「スィッフィーンの戦い」)、ところが白旗代わりにクルアーンが掲げられているのを見たアリーは和議に応じてしまい、これに不満を持つ兵たちが数千人規模で離反した。離反者は「ハワーリジュ(「離れた者たち」の意)派」と呼ばれ、イスラム最初の分派となった。ハワーリジュ派はムアーウィヤはもちろん〝裏切り者〟アリーにも刺客を送り、アリー殺害に成功する。アリーはクーファのモスクで三人の刺客に取り囲まれ、切り刻まれた。


◆カルバラーの悲劇

ムアーウィヤは正統ハリーファを宣言しダマスカス(シリア)へ遷都、ウマイヤ朝(六六一~六七〇)初代ハリーファとなった。アリーの死後もアリー親派はウマイヤ朝への抵抗運動を続け、「アリーの党」と呼ばれるようになる。シーア・アリーこと、シーア派の始まりである。

ヒジュラ歴四一年(西暦六六一)第五代ハリーファとして推戴されたアリーの長子ハサン(アブームハンマド・アルハサン・イブン・アリー・イブン・アブーターリブ。六二五頃~六七〇頃)はムアーウィヤと争わず年金と引き換えにハリーファ位を放棄、しかしムアーウィヤ死後息子のヤズィード・イブン・ムアーウィヤ(六四二頃~六八三)がウマイヤ朝第二代ハリーファに就任するや、メディナにおいて礼拝指導者としての地位を兄ハサンから継承していた弟フセイン(サイイド=尊称・アルシュハーダ=尊称・アブーアブドッラー・アルフセイン・イブン・アリー。六二六~六八〇)はヤズィードに対し「忠誠の誓い」を拒否、挙兵の動きを示した。


◆フサインの死

その頃クーファのムスリムたちがウマイヤ朝を認めずアリーの息子を指導者に迎える決議をしたので、招聘を受けたフセインは一族郎党うち揃ってメディナを出発するものの、一歩早くクーファはウマイヤ軍に平定され、フサイン一行は砂漠で孤立した。

数千騎のウマイヤ軍は一行を追跡・待ち伏せして水の補給を完全に断ち、カルバラー(イラク)の包囲網へ誘導した上で、女こども含めおよそ二〇〇人をひとり残らず殲滅した。無数の槍傷を負ったフセインの遺体はずたずたに引き裂かれ、首都ダマスカスへ届けなければならない頭部を斬り落としたあと、形が無くなるまで踏みにじられた。「カルバラーの悲劇(西暦六八〇年)」と呼ばれる、イスラム最大の悲劇である。


【アラビア・ペルシアの伝説】カルバラーの悲劇
イスラム伝承『ハディース』
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ファーティマはムハンマド年下の従弟で叔父のアリーと結婚しますが、ハリーファ(カリフ)争いがもとで夫は暗殺、息子フセインはカルバラー(イラク)で惨殺されます。ヒジュラ歴ムハッラム月十日にあたるこの日は「アーシェラー(「十」の意味。「阿修羅」の原型である「女神アーシュラー」、つまり「イシュタル」が語源らしい)の祭日」と呼ばれ、シーア派に属す人々が神の使徒・第一預言者の孫の死を、昨日のことのように嘆く日です。

「アーシェラー」では、男性は鎖で自分の背中を打ったり胸を刀で斬りつけて亡きフセインの痛みを偲(しの)び、女性は喪服を着て、夜通しヒステリックに泣き喚きます。毎年繰り返されるこの「葬式の祭り」は、イスラム以前のシリア・パレスチナ地方で盛んだった「タンムーズ(ギリシア名ディオニュソス、アッティス、アドニスなど)を悼む祭り」に酷似しています。






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