2019年3月25日月曜日

ラバールムとミトラ教_「神話と占い」(その14)_






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父の中の父(Pater Patrum─ペトラパトルム─)
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キリスト教の象徴として史実に初めて登場する「十字架」はコンスタンティヌス帝の白昼夢に現われた「ラバルム《 X(キー)・P(ロー)ともいう。のちコンスタンティヌス軍の「旗印=〝大軍旗〟labarum」になった。ギボン『ローマ帝国衰亡史』》」ですが、XとPの組み合わせによるこの旗印は、どうも十字架に見えません。第一これは古代ギリシアの「額に聖油を塗られた者=クリストス」を意味するXと、「牧人の父」を表すPを重ねたモノグラムで、確かに「塗油された者=クリストス(christos)=印ある者」を寓意するものゝ、そのキリストが「イエス・キリスト」であった証拠は何処にもないのです。

古代ギリシアならばアイオーン、アッティス、ディオニュソス、オルペウス、オリオン、アドニスなどが塗油された者の代表格です。アフリカ、アラビア、パレスチナ(カナン)では義人エノク(生きたまま天に召され、光の天使メタトロンになったユダヤ人)こそが「印ある者」、当時のローマでキリストと言えば、イエスではなく、断然「〝父の中の父〟ミトラ」でしょう。ミトラの枕詞は「父の中の父=Pater Patrum(Father of Fathers)」なので、モノグラムはまさしくXPS(「塗油されし者、牧人の父と合一する」という意味)です。

XPS(キー・ロー・シグマ)

「ミトラのモノグラム」にとり憑かれた皇帝がキリスト教を公認し、ミトラ教に熱狂していたコンスタンティヌス軍がそれで納得した《ギボン『ローマ帝国衰亡史』》ということは、この時代(四世紀頃)までキリスト教とミトラ教が、同一宗教と見なされていた可能性を示します。実際、初期教会教父ユスティノス(一○○頃~一六五年、ギリシア教父)はミトラ教がキリスト教の〝パンと葡萄酒を聖別し主に祈りを捧げる〟「交わりの儀」を神話の中で模倣したと主張し、ミトラ教を批判します《『第一弁明』六六章「聖餐」》

当時教会で使っていた司教冠がマギ僧の三角帽に似ていたり、教皇が祭儀で被る宝冠のデザインがミトラ教の宝冠と同じだったり、モノグラムが一致していたなど、ミトラ教とキリスト教の宗教モチーフの類似もしくは一致が、初期教会教父たちの癇に障るほど多かったことは事実です。ところが一致しない部分もあるのです。

コンスタンティヌスがミトラ教徒ではなくキリスト教徒と呼ばれることを選んだのは、熱心なミトラ崇拝者として知られた暴君ネロ(在位五四~六八)やコンモドゥス帝(在位一八〇~一九二)と、一線を画すためだったと言われます。

XP(キー・ロー、ラバールム)

しかしミトラ教は信者間に位階を持つ宗教であり、非常に珍しい「戦士」の位が用意されています(鳥→花嫁→戦士→獅子→ペルシア人→太陽の使者→父)。そのせいかミトラ神は「兵士の神」とも、呼ばれます。だからこそ兵士たちは、ミトラを特に崇拝したのです。同様に、だからこそコンスタンティヌス帝は、軍隊の反乱を煽りかねないミトラ教を、国教に定めなかったと思われます。


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創造神アフラ・マズダーは聖霊アムシャ・スプンタを遣わし
ミトラのため、太陽のため、精魂を傾け霊的な家を建てさせた
高い峰々が聳(そび)え、
光り輝くハラー(大地に聳える山をハラーと言うらしい)の山の上
そこに夜はなく、闇もなく、穢れもない
ミトラは眠らない目、千の耳で、具象世界のすべてを睥睨する
そうして邪な悪漢が急いで通り過ぎようとするのを見てとると
飛んでいって掴みかかり奴の戦車に首縄を投げて足を止めさせ
隊列する兵らを打ち崩し、光を放って皆殺しにしてしまう

ミトラよ、広き牧地の主を我らは祭りあげる
来たり給え、アーリアの民に平和な家を与えてください
来たり給え、力を貸してください
来たり給え、お恵みをください
来たり給え、病気を治してください
来たり給え、勝利させてください
来たり給え、良い人生を送らせてください

【ゾロアスター教】太陽神ミトラの讃歌
『アヴェスター』「ミフル・ヤシェト」
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